既存の塗り絵のイラストに色を塗ってから、線に沿って切り抜いていく、コロリアージュ切り絵。(正式名称がわからず勝手に命名しました。)
まだ完成させたのはこの3作品のみですが、このコロリアージュ切り絵を通して気づいたことがありました。
また、それにより自分が求めていることが何なのかがわかりました。
今日はコロリアージュ切り絵を通して自分に起きていた変化のお話です。
ただの切り絵は自分で切ろうと思えない
コロリアージュ切り絵を始めてから、自分は切り絵も好きなんじゃないかと思い、切り絵の本をいくつか探しました。
ディズニーのアリスのこちらの切り絵とか。
蒼山日菜さんは、数年前にテレビで見たことをきっかけに好きになった切り絵作家さん。
蒼山さんの他の本も書店でパラパラめくったり。
また、最近ではこちらの切り絵でドレスを作る本も可愛いなと思いました。
作者さんのインスタグラムで知り、書店でも見かけておおー!と感動。
だがしかし。
これら全て、自分で切りたいと全く思わないのです。
可愛いしキレイだしこんなのが切れたら素敵だなとは思います。
でもなぜか自分で切りたいとは思わない。
コロリアージュ切り絵は、あんなに切りたくてたまらない、切るのが楽しいと思えたのに!
一体なぜ???
完成図がわからない不確実さが魅力
切り絵の本では、図案とともに完成図も写真で紹介されています。
つまり、出来上がった状態があらかじめわかっています。
完成図があらかじめわかっていて、その完成図を目指して切り抜く作業自体を楽しむ。
どうやらそれが私には物足りないようなのです。
塗り絵のイラストは塗ることを目的として描かれています。
おそらく切り絵にすることは想定されていないでしょう。
だから切り抜いたらどんな姿になるのかがわかりません。
事前に出来上がった様子をある程度想像はしますが、実際にその通りになるかはわかりません。
どんな出来上がりになるかわからないから、完成図を想像するだけでワクワクします。
また、元は塗り絵なので配色次第で印象もかなり変わるでしょう。
たくさんの楽しみ方があり、最後までどんな風になるのかわからない。
たくさんの可能性と不確実さが、私が感じるコロリアージュ切り絵の魅力です。
正しい答えじゃなくてもいい
私が塗り絵を始める前は、考え方が固定観念でガチガチになってしまっていたと何度かお話したことがあります。
高校生までは、自分とその周りが私にとっての世界の全てで、自分の考えや答えが世の中の正解なのだと思いがちでした。
しかし、大学に入ってからは授業やゼミ、卒業論文、人間関係などを通してその考えが変わりました。
物事の原因や答えは必ずしも1つではない。
見る角度によって考え方も答えも変わる。
たくさんの原因が複雑に絡み合っていて、簡単に答えを出せないことが世の中にはたくさんあるのだと気付きました。
そして就職し。
再び私の考えは狭くなっていきました。
家と職場を往復する生活。
職場の環境も人間関係も決して悪くはありません。
しかし、仕事でいっぱいいっぱいで休日はひたすら体力の回復に努めるだけ。
また、職場で自分がどう振る舞えばいいのかよくわからず、自分の本音や考えをさらけ出すことはなかなかできませんでした。
間違えることを恐れ、一般的に正しいと考えられる返答をしないといけないんじゃないか。
変な人だと思われたらどうしよう。
そういうことが続き、気づけば正しい答えを探すような考え方になってしまっていました。
しかし、塗り絵を始めてから、正しい答えじゃなくてもいいのだと気付けるようになりました。
木は茶色に塗らなくてもいい。
葉っぱは緑色に塗らなくてもいい。
自分の好きな色で、好きなように塗ればいい。
そして発見した「コロリアージュ切り絵」という楽しみ方。
最後まで出来上がりがどうなるかわからない。
切り抜いてみたら全然良くなかったということもあるかもしれない。
それでも、完成図がわからないからこそワクワクするしとても楽しい。
今まで正しい答えを無意識に探していた私が、正解がわからないコロリアージュ切り絵をこんなに楽しめている。
これはとても大きな変化でした。
こういう経緯があったからか、お手本がある塗り絵にもあまり魅力を感じません。
お手本の原画は素敵だけれど、その原画に近づけるように塗ろうとは全く思えないのです。
それは、私にとっての塗り絵が、正解を気にせず自分を自由にさらけ出せる場所だからかもしれません。
正解がわからない。
あるべき姿がわからない。
だから楽しいのです。
終わりに
今日の記事は、道を歩きながら考え事をしていたときにふと気づいたお話でした。
「コロリアージュ切り絵楽しいなー。」
「なんでこんなに好きなんだろう。」
から始まり、
答えがない、完成図がわからない、その不確実さに魅力を感じること。
自分は今までいつも一般的に正しいとされるような答えを探し、それを自分の考えとしてしまっていたこと。
そんな自分が、いつの間にかここまで考え方が変わっていたなんて!
このことに気づいたときの私は、はたから見たらただ歩いてるだけにしか見えなかったと思いますが、実際内心では結構な衝撃を受けていました。
正しい答えを気にしてばかりいたからこそ、正しい答えではなくても良い塗り絵や最後まで完成図がわからないコロリアージュ切り絵に、こんなにも惹かれるのかもしれません。
ではまた次回~。